あなたが目を瞑った時、存在していると思っている周囲の情景が実は虚像で実際は何も存在などしてはいなかったとしたら、どう生きるか
耳触りの良いものだけを聴き、見栄えの良いものだけを見て生きていたい…。そんな人間を愚かしくも
愛おしく思う
船乗りだった祖父は仲間とお酒を酌み交わし「がはは」と大きく笑った瞬間に心臓が止まって死んだそう。
それを心底羨ましいと思う
何に囲まれ誰と過ごすかによって、その者の構成要素が変化するから
まずはとりまく環境を変える
開花したら、まずは周囲に恩恵を与えることを考えたい。
この蜂のように
死ぬに死ねない現代で死ぬためにはそれぞれの課題をクリアする必要がある
見分けがつかないことは
自身の目の節穴さだと
思ったほうがいい
そう思う人がそうなるし
違うと思う人が違ってくる
結局自分で世界を創っている
ただそれだけの事
未熟でどうしようもない
存在であることを
素直に認めるか
もしくは逃げ続けるか
集団に所属することは面倒ではある
一方で気楽だったりするのは
人間は種の存続の方法として他者と
繋がることを選んだからだろう
明日があたりまえに
来ると思っているのですか?
なんと愚かで
愛おしいのでしょう
いのちは砂漠の砂粒にすぎず
朝露の一滴にすぎない
それほどまでに儚くも尊い
芽吹かない種はあるけど
開かない蕾というのがないなら
蕾の今はプロセスって思える
ガイア理論で世界を捉えると
地球にとって我々人間の存在は
厄介なウイルスや黒光りするGと
同じような存在なんだろう
我々は独りで生まれ独りで死んでゆくのだから、おそらく誰かと過ごす時間は貴重なんじゃないかな
自身の肉体を隅々まで観察すると無駄のない洗練された構造になっていることがわかる。我々は奇跡的な
バランスのうえで生きている
我々人間は愚かにも
何度も何度も同じような歴史を繰り返しながら種を繋いできた訳だが、さてこれからどうするか
成人男性の肉体の約60%、
新生児に至っては80%が水分だそう
つまり水の様にいつでも何にでも
変わることができるはずだ
善悪は表裏一体。善悪の区別をした時点で善と悪がうまれる
どちらも無く、どちらも同じなのに
10年後・20年後・50年後の未来を想像して今を生きる
時代の潮目を見極める目を養う
すべての物質は素粒子で構成されているのだそう。あらゆるものが振動する素粒子の集まりでしかないのなら、壁だって通り抜けられるはず。
この未熟な命の儚さよ
どれほど嘆いても結局は
生まれ、生き、死んでいくだけ
大切な人を亡くしても、その人だけが存在しない世界が始まるだけで、相も変わらずお腹は減るし眠くもなる
「食べなければ生きられない」
が思い込みかもしれないと
考えてみたことはありますか
まずはその感情が「衝動」なのか「熟考した末の情動」なのかを
明確にして教えてください
命あるものはすべて、早かれ遅かれいずれ死にゆくということ。
これだけが唯一絶対の定である
「真っすぐ過ぎる」のもイマイチ良ろしくない。足も背筋も、真っすぐすぎると歩けないでしょう